武田信玄といえば「風林火山」が有名ですが、今回は武田信玄の我慢強さを紹介します。
とはいえ、「動かざること山の如し」の我慢強さではありません。
武田信玄の命を奪ったといわれる病気「食道がん」の話です。
武田信玄は、元亀3年(1572年)の秋、大軍を率いて南下し、同年12月22日には三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝利をおさめました。しかしその後、突如体調を崩し、甲府へ帰陣し死去します。
歴史小説などでは、三河で発病したとされている書もありますが、実は、出陣以前より体調がすぐれなかったようです。
膈(かく)の病を患っていた
江戸初期に出された、武田氏の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』によると、永禄11年(1568年)12月、47歳の信玄は「膈(かく)の病」を患ったと書かれています。
膈の病とは横隔膜の近辺、たとえば食道下部や胃の噴門の炎症や潰瘍などの総称です。
元亀2年3月と8月、上杉謙信が越中一向一揆の勝興寺を攻めた際、勝興寺は信玄に救援要請をしました。それに応じた信玄は信越国境まで出陣したのですが、途中、病を発して引き返してしまいました。
後に信玄は、病のため救援に行けなかったという詫び状を寺に送っています。自分の病を外に漏らすこを嫌う戦国武将があえて病に触れた書状を送ったのは、それほど症状が重かったからなのかもしれません。
胃がんと推察される信玄の病
本来信玄は、元亀3年9月の初旬には三河へ出陣する予定だったようですが、ひと月延ばして10月3日に出陣したのも病に関係がありそうです。
徳川に勝利し三河野田城を包囲していた武田軍は、信玄の病状悪化のため病床を担がせて三河の鳳来寺山に登り病退散の祈願をします。その甲斐あってか、病状は一時軽快したようです。しかし、ほどなくして重体となり甲府へ帰還しますが、その途上、信州伊那郡で危篤状態に陥ったといわれています。
先の『甲陽軍鑑』では、甲府への道すがら4月11日午後2時頃から頻脈となり、翌12日夜10時頃には口腔に潰瘍のような爛れ(ただれ)が生じ、また、歯も5~6本抜け落ちて、あっという間に衰弱したと書かれています。
この口腔の爛れや、歯の抜け落ちる症状は、悪性腫瘍末期の際に起こる悪液質だと思われます。
これほど、症状が悪化しているのにもかかわらず、意識は末期まではっきりしていたようで「三年喪を伏せ」と遺言して逝去しました。享年53歳のことです。
現代の医学で考えると、もし信玄が患った膈の病、すなわり横隔膜付近に出現した悪性腫瘍とすれば、食道がんや胃の噴門がんが強く疑われます。
食道がんは、50~70歳代で大酒飲みの男性が発病することが多いといわれており、信玄もことあるごとに痛飲していたみたいですから、食道がんであったという見方が強いです。
まとめ
食道がんという大病を抱えながらも、大軍を率いて遠征する信玄の精神力には驚かされます。しかもその経過から、陣中においてよほど悪化するまで堪えていたことがわかります。
残念ながら病には負けてしまいましたが、その精神力の強さと我慢強さは、さすが当代一の戦国武将だったといっても過言ではないでしょう。